御嶽山の噴火で、経験した恐怖….

2014年09月29日

みなさん、こんにちは。
今日は、35年前の御嶽山噴火に出会った体験話をします。

1979年10月28日に、御嶽山は有史以来初めての噴火をしましたが、
その時私は、頂上にいました。


セルフタイマーで記念撮影、快晴で乗鞍、穂高、遠くに富士山まで見えた
私の真正面に地獄谷がぽっかりと口を開けていた(10月27日午後3時撮影)

確か、朝5時頃だったと思います。
「ポン!!」と何かがはじけるような音と、
若干の揺れを感じて目を覚ましました。

私は、20畳くらいの小さな、無人の山小屋で
シュラフにもぐりこんで寝ていました。
もちろん、一人での山行きです。
当時は、槍ヶ岳、穂高、白馬…などほとんど一人で
登っていました。
思い起こせば、何度も死にそうな目に遭いました。

10月ともなれば、3,000メートル級の山は、
夜は、冬のような寒さになります。

慌てて、2メートルくらいの高さにある
窓によじ登って、外を見ると、
遠くに、噴煙が白くゆっくりと流れているのが見えました。


頂上を縦走するため高天原の這松帯を進む背後で
噴煙はどんどん増えた(10月28日午後9時 高天原で撮影)
セルフタイマーで撮影したこれらの写真は当時の「毎日グラフ」に掲載されました

私の頭は、混乱しました。
なぜなら、御嶽山は休火山だと思っていたからです。
地図についている、山ガイドには活火山とありましたが、
ますます混乱しました。

ちなみに、
無人の山小屋の木製の扉は、
厳重に釘づけされ、人が入れないようになっていました。
でも、テントを張るのも面倒なので、
その無人の山小屋の窓から、もぐりこんだというわけです。

窓といっても、
窓枠があるだけで、ぽっかりと開いていて、
もちろん閉められないので、
一晩中、吹きさらしです。

今のように携帯電話もiPhoneもない時代ですから、
慌ててラジオをつけても、
御嶽山の噴火のニュースはやっていません。

ラジオでは、二日前に暗殺された、
韓国の朴大統領のニュースばかりを流していました。

しかし、私はのんびりしたもので、
すぐに下山しないで、
頂上から反対の下山口に向かって、
山頂からの縦走を開始しました。

後で考えれば、
慌てて登山口に引き返していたら、
早く噴煙に巻き込まれていた可能性もありました。

歩き始めて、
2時間くらい経った時です。
頭上を、ヘリコプターやセスナ機が、
旋回していました。

そこでやっと、大変なことが起きているんだと気付きましたが、
ラジオのニュースは、一切取り上げていません。

その日、山に泊まった人は、
10人に満たない人数で、
閉山後の山に泊まる人は、
よほどの装備をしている人に限られ、
人的被害がないので、取り上げていなかったのかと思います。

私は何を思ったか、
頭上でヘリやセスナが旋回するたびに、
這松や岩陰に身を隠しました。

「遭難者と思われたくない… 」という変な心理が働いていたのです。

その時から進路を変え、
反対口への下山を決断しました。

風向きから、噴煙の流れがそちらには
行っていないと判断したからです。

御嶽山の頂上付近は 這松や岩ばかりで、
ほとんど身の丈よりも高いものはありません。

ところが、
少し下ってくると、森林地帯になりますが、
そこで頭上から、噴煙が音を立てて降ってきました。

視界10メートルもなく、あたりは暗くなりました。

大きな顆粒のような噴煙の粒が、
頭や体に休むことなく降ってきました。

森林地帯を一人で歩いていた時の形相は、
見ていませんが、命からがらという
必死の顔だったのではないかと想像できます。

営林署の職員に発見され、車に乗せていただきました。

信濃日報の本社に連れて行かれて、
記者に囲まれて、火山灰だらけの写真を撮られたときに、
やっと、恐怖が湧いてきました。

30年以上も前の話ですが、
まだ、小説家になりたいと、文章を書いていたころの思い出です。

今日も頑張るぞ!!
の、ひろせでした。

(今回の噴火で被害に遭われた方々に、心よりお悔やみ申し上げます)

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PROFILE プロフィールPROFILE(プロフィール)

広瀬元義
株式会社アックスコンサルティング代表取締役。1988年 株式会社アックスコンサルティングを設立。不動産コンサルティング、会計事務所向けコンサルティングを中心に業務を展開。